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bridge Interview 2017 ブリッジインタヴュー

僕らはパンク・スピリットを持っていたんです

──22年ぶりにブリッジで出演したステージはいかがでしたか?

 

清水 「久々なんだけど、6人全員そろったときの違和感のなさはびっくりしたね。やっぱり20代前半に全身全霊でやっていたバンドだったからさ。貴重な人たちの集まりだなと思うよ」

 

カジ 「今日もさっきまでリハーサルで全員集まっていたんだけど、一緒に音を出すとすんなり、しっくりくるものがあって。でもこうして全員そろって音を出せることってなかなかできることじゃないから、スゴイと思うよ。あとステージに立ってみたら、案外…普通というか(笑)、22年経った感じはしなかったんだよね」

 

清水 「初めのリハはなんか少し空回りしていたような感じがしたんだけど、2、3回とやっていくうちにブリッジになった感じがしたなあ」

 

池水 「私は1回目のスタジオから、”ああブリッジだなあ”と感じたよ」

 

清水 「個人的には20代前半の自分との戦いだったね(笑)」

 

一同 (笑)

 

池水 「それはみんな同じだと思うな」

 

清水 「絶対負けられねえな、と思いながらやっていたよ(笑)。勝ち負けの問題じゃないんだけどさ」

 

池水 「いや、それはすごくわかるよ。私もリハ終えて家に帰ってから勝ったとか負けたとか、そんな気持ちになったし」

 

清水 「わりと体育会系な感じだったな」

 

──皆さんはずっと音楽をやって来られていますから、テクニックや技量は今のほうが圧倒的に上だと思うんですけど…気にされていたのは気持ちの面ですか?

 

カジ 「それぞれが経験を積んできた事は確かにその通りなんだけど、ブリッジに関して言えば、22年のブランクは想像以上に大きいことだったね。当時はずっと練習していたし、その過程でバンドとしてどんどん上手くなっていく時期でもあったし、若さ所以の瞬発力、体力もあったからね。3回ぐらいリハをやってようやく勘を取り戻したというか」

 

池水 「私の場合、自分のバンドのThree Berry Icecreamでライヴをやるときはアコーディオンを座って弾くんですよ。それは歌とのバランスを考えてそうしているんだけど、ブリッジは立って弾きながらじゃないと早弾きもコーラスもできないから、それだけでも感覚が違うんですよね」

 

清水 「曲を弾いていると当時何を考えながらやっていたのか、鮮明に思い出したりするんですよ。どんな気持ちで作っていたのか、弾いていたのかとかね」

 

池水 「体で覚えている部分もたくさんあるんだけど」

 

清水 「やっぱりその当時の気持ちに負けないようにというのはあったかな」

 

池水 「この前のライヴを観られてどうでした?」

 

──僕は当時を知らないものですから比較ができないんですけど、演奏力がありライヴ映えするバンドだったと感じました。当時のライヴを観ていた妻が言うには、眞美さんのヴォーカルはじめ皆さんの演奏が当時と遜色なくてすごく良かったと話していましたね。

 

清水 「それはよかった。やっぱりやる以上はちゃんとやりたいなという思いがあったからね。とりあえず無事終わってよかったよ」

 

カジ 「ブリッジは演奏力がしっかりとしていたバンドだったと思うんですよ。清水君はジャズ・ギタリストとしてのテクニックもあるしね」

 

池水 「みんな負けず嫌いだから(笑)。今回は15分で4曲だったから初期で勢いのある曲を選んだんですよ」

 

──これは誤解をしないでいただきたいんですが、演奏力の話で言うと90年代にネオアコやギターポップが日本でもブームになってたくさんのバンドが生まれましたけど、当時“ほどほどの演奏力”のバンドがたくさんいましたよね。ギターポップだからとは言いたくはないんですが、多分青春時代の甘酸っぱさや青臭い部分、甘い世界観を表現するにあたり、“ほどほどの演奏力”や”がむしゃらで勢いのある演奏“が音楽性にフィットしていた一面もありましたし、それがかっこよく見えるバンドもありました。ただ中には本当に下手なバンドもたくさんいたんですよね。それで何が言いたいかというとブリッジはスタジオ作品を聴いても今回のライヴもクオリティが高くて、他の日本のネオアコバンドとは違う匂いを感じたんです。

 

清水 「そう? 僕らも最初のころのデモは面白いけどね(笑)」

 

カジ 「でも言いたいことはわかりますよ。確かにギターポップやネオアコってあまり上手すぎると“らしさ”というか良さが出ない音楽というかね。僕自身もそういう音楽を愛好しているし、いわゆるヘタウマな音楽は大好きだからね。だけど自分たちが音楽をやる上で、当時ブリッジはそのようには聴かれたくないという考えも持っていたんです。もちろんヘタウマで可愛くていいバンドもたくさんいたけど、他との差別化と言うか、型にはまったものではなく、ブリッジらしさを追い求めたというか。まぁ、他と一緒にされたくないというのはありましたね、若かったし(笑)」

 

池水 「うん、それはすごくわかる。当時ギターポップやネオアコがブームになって色んなバンドが出てきたから、逆に私たちは一緒にされないように頑張るしかなかったんですよ」

 

カジ 「当時の音楽シーンでいうと、僕らは僕らの友達や周りとは仲良くしていたけど、それ以外のバンドとはあまりつるんでいなかったんです。初期のネオアコシーン、ロリポップソニックやペニーアーケード、バチェラーズもみんなそうだけど、彼らはパンクなスピリットを持っていたんですよね。僕、未だにロリポップソニックが本当にすごいなと思っていて。それは当時の他のパンクバンドよりも彼らの方が断然パンクだったってことなんです。そのスピリットがね。僕はパンクが大好きだったから色んなライヴを観たけど、見た目だけパンクな人が多かったんですよ。だから小山田君や小沢君が出てきたとき、彼らのスピリットが本当にパンクですごいと思ったし、ブリッジもそちら寄りの考えのバンドなんですよ。だから甘い感じで出てきたバンドとは一緒にされたくないなと、当時はよく思いました(笑)」

 

清水 「ロリポップソニックが出てきたときはね…ホッとしたからね。すごくホッとしたんだよ。当時本当にひどいバンドはひどかったからね」

 

カジ 「80年代後半にバンドブームが起こってイカ天とかも流行ったけど、たぶん僕らってそのアンチだったんですよね。そこへのカウンターの立ち位置だったと思います。だからロリポップが出てきてフリッパーズ・ギターになって活躍してくれたのは本当に嬉しかったんです。“俺たちがロックだ!”というスタンスのバンドよりも、全然僕らのほうがロックだしパンクだったからね。いわゆるステレオタイプのロックやパンクが嫌いだったんですよ」

 

池水 「表面的なことではなくてね、内面・スピリットの部分なんだけど」

 

カジ 「僕らの周辺の音楽シーン、渋谷系もそうだけどその核はね、パンク・スピリットなんですよ。反骨精神!(笑)」

 

池水 「当時フリッパーズ・ギターが解散したあと、彼らの音楽だけを聴いて彼らをオマージュしたような、似たようなバンドがたくさん出てきたけど、その大半は音だけを真似ていただけなんですよね。音だけしか聴いていないと彼らはじめ私たちの周りのパンクの精神はわからないと思うから」

 

──このお話、とても興味深いです。90年代後半に初めて皆さんのことを知って、あとから遡っていった僕のようなリスナーは音だけで判断してしまいますから。もちろん音楽が良ければ一義的にはそれでいいのでしょうけど、当時のことを正しく理解しようとしたらやっぱりこうしてお話を伺わないとわからないですからね。

 

池水 「この前の2月のライヴ、そして4月のライヴでそのスピリットが伝わればいいなと思います」

 

カジ 「この前のペニーアーケードのライヴは、まさにその象徴だったんですよ」

 

池水 「あのステージに立っていた彼らも、観に来ていたお客さんも同じスピリットを共有していたからね」

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが起点

──ポプシクリップ。の読者にはブリッジを知らないリスナーもたくさんいますので、ブリッジがどんなバンドだったのか、ルーツとなる音楽から教えてもらえませんか?

 

清水 「この前久しぶりにブリッジ初期のデモテープを引っ張り出して聴いていたんだけど、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Undergroundのような雰囲気がすごくあったんだよね」

 

カジ 「ブリッジの最初の出発点はインディーポップ、つまりザ・パステルズ(The Pastels)やタルーラ・ゴッシュ(Talulah GoshをはじめC86界隈のバンドからの影響が大だと思うし、オレンジ・ジュース(Orange Juice)やモノクローム・セット(The Monochrome set)などのネオアコも重要。でも実際にみんなが共通して好きなのはヴェルヴェットだったりするんだよね。清水君は当時からインディーポップという感じでもなかったと思うし」

 

清水 「うん、そうだね」

 

カジ 「だからヴェルヴェットが起点になっていたことを考えると、初期の楽曲にその匂いがするのは自然なんだろうなと思って」

 

池水 「そこからまた広がってオレンジジュースに行ったりもするんだろうけど」

 

カジ 「結局彼らのルーツもヴェルヴェットに行くからね」

 

池水 「そうそう」

 

清水 「ヴェルヴェットがいなかったらその後に続いたポスト・パンクのバンドはきっといなかったと思うんだよ。みんなヴェルヴェットをルーツにしていたと思うから」

 

カジ 「ヴェルヴェットは音楽だけじゃなくてそのスタイルも含めてかっこよかったし」

 

池水 「確かブリッジが初めてカヴァーした歌が彼らの〈アフター・アワーズ〉だったんですよ。初期のブリッジの方向性を決める上で彼らがモノサシになっていたと思いますね」

 

清水 「そういう意味ではヴォーカルのルー・リード(Lou Reed)のサポートをさせてもらったのは嬉しかったね」

 

池水 「いつごろ?」

 

清水 「6年前かな。当時本田ゆかさんやペトラ・ヘイデンらとやっていたバンド“IF BY YES”のツアー中でニューヨークに戻ってきたときに3.11の震災があったんだ。そのときにオノヨーコさんが動き出す話があったからニューヨークでの滞在を伸ばして彼女のお手伝いをしていたんだよね。チャリティー企画なんかを一緒に何度かやったんだけど、その時のゲストがルー・リードだったんだよ。スタッフからはすごく気難しい人だと聞かされていたんだけど、彼がこれからリハーサルに来るという話があった時に一人タバコを吸いに行ったらちょうど本人が来て(笑)、“ハーイ!”と挨拶したら“ハーイ!”と返事してくれてさ、俺にはとても気さくですごくいい人だったよ。まあリハではみんな彼にしごかれていたけどね(笑)。ただ相性が良かったのか俺には優しくて“ヘイミスター、俺のためにリードギターを弾いてくれないかい?”って声かけてもらえてすごく嬉しかったよ。ブリッジのメンバーに報告したいなって思った」

 

──ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが一つのキーワードとのことですが、バンド結成にあたり他に何かキッカケはありましたか?

 

カジ 「87、88年頃かな、当時日本にもネオアコシーンが生まれ始めてその中心的な位置にロリポップソニックやバチェラーズ、ペニーアーケードがいて、ブリッジはその流れで生まれたバンドですね。みんな前のバンドでロリポップと対バンしてたり、あと小出亜佐子さんがやっていたファンジン『英国音楽』の存在も忘れてはならないですね」

 

──あえてネオアコをやろうと思われたのは?

 

池水 「選んでネオアコをやったんじゃなくて好きだった音楽をやっていたという感覚が強いかな。ネオアコという言葉そのものが当初はなくて、活動中にあとから生まれた言葉だったし」

 

カジ 「ネオアコは80年代中後半、一部のセンスの良い音楽好きや洋楽雑誌などでは注目されていたけど、フリッパーズ・ギターの人気のお陰で一気に広まったよね。ブリッジもそうだけど、90年初頭になってファッション雑誌などでもネオアコ特集が組まれるようになったから。僕は昔ゼストというレコードショップで働いていたんだけど、当時それまでマニアックだった音楽を普通の人、それこそ女子高生も買って聴くようになった時代だったんですよ。レコードの売れ方が変わっていった時代だったんです」

 

池水 「今だったらインターネットがあるから検索したらわかるんだろうけど、ネットも携帯もない時代で、マイナーな音楽を知るのって友達の口コミくらいしかなかったんですよ。カセットテープを交換したり」

 

カジ 「単純にポスト・パンクの流れを汲む音楽好きがなんとなく集まりはじめたのが東京ネオアコシーンの最初だよね。最初は数十人しかいなかった」

 

池水 「それでロリポップソニックが登場したこともあって彼らのライヴに行くと同じ人たち、ネオアコ好きに会えるということがわかって友達になったり」

 

カジ 「それが少しずつ広がっていってね。ブリッジもその流れでできたバンドだからね」

 

池水 「私がブリッジの前にやっていたバチェラーズというバンドもロリポップソニックと対バンしていて、そこで2月のライヴでも一緒にやったフィリップスやデボネアとも出会ったしね。89年にまさにその4バンドで京都に行ってライヴしたこともありました。ドラムのヒロちゃんも、彼女がやっていたボーイズ・ショート・ヘアというバンドが解散する話を聞いて、それで誘ったのがきっかけだったしね。対バン同士で仲良くなってそこを通じてまた新しいバンドができて、という流れだったんですよ」

 

──いわゆるメンバー募集で集まったバンドではなく友達つながりで始めたバンドだったんですね。

 

池水 「ブリッジはそうですね。清水君もサウザンド・リバーのライヴを観に行った時に知り合ったんですよ」

 

カジ 「ネオアコシーンがいわば一つの音楽サークルのような感じだったんです」

 

──ブリッジはポリスターのトラットリアレーベルからデビューされましたが、きっかけは何だったんですか?

 

池水 「それはやっぱり小山田君だよね」

 

カジ 「もともとはフリッパーズ・ギターが監修した『fab gear』というコンピレーションアルバムに参加したのがきっかけですね。結成して1年も経っていないころで」

 

──他のレーベルからも声はかかっていたのでしょうか?

 

カジ 「ありがたいことにソニーやビクターはじめ数社のメジャーレコード会社からお話をいただきました。またコンピでいうとあちこちのレーベルから出しましたね。エピックソニーとか、インディーズではクルーエル・レコードとか。クルーエルは当時カヒミ・カリィさんも出してましたね。あとはサニーデイ・サービスが所属していたミディからもね」

 

池水 「他にもエスカレーター・レコーズをやっていた仲君がその前にやっていたトランペット・トランペットというレーベルからもね。それもブリッジを出したいといって作ってくれたレーベルだったし」

 

カジ 「色んなレコード会社やレーベルからお話をいただいたんですけど、そんな話をしている間に小山田君が、フリッパーズをリリースしていたポリスター内でトラットリアというレーベルを始めることになって、早々とビーナス・ペーターの契約が決定していたので、僕らも心のどこかでそこから出したいと思っていました。櫻木さんやスタッフの方々の良さをよく知っていたしね。なのでお話をいただいた時は、即OKを出しましたね(笑)」

 

池水 「それこそブリッジはトラットリアと共に歩んだバンドだったんです。トラットリアの一枚目のコンピだった『BEND IT!』から参加したしね」

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