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ピエール・バルー 50年目を迎えた、プライベートレーベルの美学

音楽レーベル特集、最後にご登場いただくのは1966年に設立され2016年で50年目を迎えた世界最古のインディペンデント・レーベル「サラヴァ」を作ったピエール・バルーさんだ。実は本特集、最初に構成や着地点を特に決めてはおらず、色んな方への取材を通じて作ってきたものである。サラヴァについては名前こそは昔から知っていたしCDも持っていたものの、レーベルとして強く意識したのはジャーナリストの津田大介さんと今回お世話になった牧村憲一さんの著書「未来型サイバイバル音楽論」や牧村さんの「ニッポンポップスクロニクル」だった。

 

今夏以降、音楽レーベルについて考えるため色んな方に取材をさせていただいたが、特に曽我部さん、クボさん、美音子さん、アイコさん、沖井さん、森野さんらミュージシャン、すなわち制作者側の話を聞いていくうちに、過去の日本の音楽レーベルとミュージシャンの関係において一定の共通課題があることを知った。じゃあその課題を解決できる方法がないのか、これらの課題をクリアしている音楽レーベルがないのか探したところ、10月中旬に出会ったのが「サラヴァ」だった。

 

2016年10月下旬にアニバーサリーイベントを渋谷O-EASTで行い、当のピエールさんも来日するという話を聞いたのが5日前。ダメ元で取材申し込みをしたところ、快くお引き受けいただいた。コーディネーターのソワレさん、通訳をしてくださったアツコ・バルーさんはじめ関係の皆さんに改めて御礼申し上げたい。

 

特集の冒頭で牧村さんの話していた“制作マインドのある音楽レーベル”とは何なのか、その着地点としてサラヴァの思想を理解することは、ミュージシャンはじめとした音楽関係者はもちろん、リスナーの方にもきっと伝わるだろうと確信している。

 

Interview&text 黒須 誠

Photo 木目田隆行

Interpreter アツコ・バルー

Coordinator ソワレ

 

本記事は2017年1月18日に刊行したポプシクリップ。マガジン第8号に掲載の特集記事を抜粋、WEB掲載したものです。雑誌は渋谷パイドパイパーハウスや下北沢モナレコード、Amazonにて販売中です

取材から2カ月、2016年12月28日にピエールさんは還らぬ人になりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます

New Album『サラヴァの50年』

V.A.

サラヴァの50年

2016年9月28日リリース

Amazon

僕は他人の才能を見つけたり、認めたり、そしてそれを人に広めるのが大好きなんだ

──はじめにサラヴァ・レーベルを立ち上げた動機からお伺いできますか?

 

ピエール・バルー 「動機とは違うかもしれないけど、自分の周りのサークルを広げたかったからだね。作家・アーティストは作品を出さなければ、ただ一人で存在しているだけだよね? だから自分がいいなと思った作家やアーティストのレコードを作り、それを世の中に出していくことで、多くの人がそのアーティストをいいなと思ってくれるようにしたかったんだ。つまりそういう音楽の輪を広げたかったんだよ。僕は自分でも音楽を作るんだけど、それ以上に他人の才能を見つけたり、認めたり、そしてそれを人に広めるのが大好きなんだ。自分がいいと思ったレコードを友達にオススメするようなものだね」

 

──当時、映画『男と女』の制作資金を穴埋めするため、音楽出版権を売ろうと考えたところからサラヴァ・レーベルを作られたと聞きましたが?

 

ピエール 「ご存知かもしれないけど、映画のロケ中に資金が不足してしまったんだよね。それでその時売れるものが音楽出版権しかなかったんだよ。それで出版権を買ってもらいたくて『エディション・サラヴァ』を作ったのが始まりなんだ。当時あちこち買い手を探し回ったんだけど、誰も相手にしてくれなかったんだよね。そのときすでに僕は自身のアルバムを作っていたし、当時売り出し中の歌手としてはわりと有名だったんだけどね。でもルルーシュ監督は無名だったし、彼の作った前の映画も全く売れていなかったんだ。しかも当時は映画音楽といったらオーケストラだと決まっていたんだけど、一緒にやっていたフランシス・レイは流しのアコーディオン弾きだったし、歌の入った楽曲だったから、誰もそこに魅力を感じなかったんだよ。だけど、お金がなかったおかげで前例に縛られることなく自分たちの自由な発想で映画を作れたことはよかったと思う」

 

──映画『男と女』のヒットを受けて大成功されましたよね。サラヴァにも多額のお金が入ってきたわけですが、その段階でレーベルを誰かに譲る、もしくはどこか大きなレコード会社に買ってもらうといったことは考えなかったのでしょうか? サラヴァはこの50年間二度の経営危機に見舞われながらもずっとインディペンデントで活動されています。

 

ピエール 「僕は14歳のころから自分でも歌を作ってきたんだけど、他人の才能を発見したり広めたりするのが好きだったから、そのお金を使って好きなことをもっとやりたいと思ったんだ。だけど僕は長い間、フランスのメディアからは疑いの目を向けられたり、変わり者として見られていたから大変だったんだよ(笑)。決して悪意を持たれていたわけではないんだろうけど、それまでの常識ではカテゴライズできないことをやっていたからね。映画で一躍有名になったけれども、サラヴァを始めてからはいわゆるアンダーグラウンドな音楽ばかり手がけていて、それはそれまでのどの音楽カテゴリにも属さないものだった。そんなアーティスト達と一緒にいたからね。誤解もあったし、のけ者にされたこともあったんだよ。だけど時は過ぎて最近になってようやくそのようなことも無くなったし、再評価されるようになったんだ」

 

──「サラヴァ」の由来は何ですか?

 

ピエール 「僕が作った[サンバ・サラヴァ]という歌だね」

 

──「サンバ・サラヴァ」はブラジルで録音されたと聞きました。

 

ピエール 「そう、ブラジルで録音した音源があってね。もともと[サンバダベース]というブラジルの歌があって、“サラヴァ”という言葉は当時アフリカからブラジルに売られてきた奴隷が崇拝していた宗教で使っていた言葉で、“神に祝福あれ”といった意味なんだよ。そこでブラジルで聞いた歌を僕なりに解釈してフランス流に新たに作ったのが[サンバ・サラヴァ]なんだ」

サラヴァのフィロソフィーはインプロの精神にある

──サラヴァ・レーベルの美学は何だったのでしょう?

 

ピエール 「それこそ今話した[サンバ・サラヴァ]の話にもなるんだけど、『男と女』は自主制作の映画だったからなかなかお金が集まらなかったんだよ。それで僕はお金が集まるまでの間、ブラジルでアントワーヌ・ドルメソン監督の映画『海の恋人たち』の仕事を引き受けたんだ、俳優としてね。その映画はブラジルのリオの向かいにある小さな島の漁村の話でね。その漁村は居心地がとてもよかったから、映画のロケが終わった後も家を借りてしばらくそこに住んでいたんだ。週末には船でリオまで行ってバーデン・パウエルやオスカー・カストロ・ネヴィスらミュージシャン仲間と一緒に歌っていたんだよね。漁村とリオを往復する生活を送っていたんだけど、そのうちにフランスから、映画の資金が集まったので戻ってこいという電報が届いてね。僕は一日でも長くその村にいたかったから、ギリギリまでブラジルにいたんだよね。それで帰る日の前日に、せっかくだから記念に歌を録ろうという話になってパウエルらと徹夜で演奏しながら録音したのが[サンバ・サラヴァ]だったんだ」

 

──つまり即興演奏で作ったということなんですね。

 

ピエール 「そうなんだ。サラヴァ・レーベルが何なのかを考えてみると、やっぱりそこには“サラヴァ・サウンド”というのがあってね。主な特徴は“インプロビゼーション”によるもので、それがサラヴァのフィロソフィーの一つなんだよ。僕にその確信を持たせたのは、クロード・ルルーシュ監督の“シナリオがあろうがなかろうが、面白いものがあったらすぐに飛びついていく”というスタンスだね。実際『男と女』の映画でもね、ブラジルから帰ってきた僕が空港で監督と合流して、ラジオ局に行って録音したばかりの[サンバ・サラヴァ]を聞かせたら彼はすごく気に入ってくれてね、この歌を映画に取り込めるようシナリオを作り変えてくれたんだよ。彼も即興で何かをやることが大好きだったし、それに勇気をもらったんだ。映画史においても『男と女』での“歌の使い方”は初めてでね。60年代当時、歌ものはミュージカルでは使われていたんだけど、今でいうミュージックビデオのように映像と音楽が溶け合って一つになるような使い方は初めてだった。この映画が今見ても面白いのは、監督の持っていたインプロの精神だと思うね。50年続いたサラヴァのフィロソフィーはこのインプロの精神にあるんだよ」

 

──インプロの何がそれほどまでにあなたを魅了したんですか?

 

ピエール 「意図しないところ、かな。インプロの正反対を考えてみるといいよ。例えば“この歌は3分以内におさめよう”、“最初に山場を持ってこよう”、“ラジオで使ってもらえるようにサビをここに入れよう”とかね。予めそういった制約を決めないことによる、自由さと言ったらいいかな」

2016年10月27日 東京・渋谷TSUTAYA O-EAST『一期一会 サラヴァレーベル50周年記念コンサート』より
2016年10月27日 東京・渋谷TSUTAYA O-EAST『一期一会 サラヴァレーベル50周年記念コンサート』より

サラヴァ・レーベルの特殊性は営利企業ではない、ということ

──ピエールさん自身もアーティストですがお話を聞いていると、ご自身のことよりも他のアーティストのことばかり考えていらっしゃるように思います。例えば世界一有名な歌手になりたいとか、ワールドツアーをしたい、自分のレコードをもっと売りたいといった欲があってもおかしくないと思うのですが?自己顕示欲や名誉欲などはないのですか?

 

ピエール 「自分にとって歌というのは芸術表現の中で一番恵まれた表現だと考えていてね。映画監督や建築家が何か作りたいと思ってから実際にモノができるまで何年も、それこそ10年かかってもできなかったりするが、歌というのは紙切れと鉛筆一本あれば、好きな時に書いて好きな時に歌うことができる。赤信号を待っているときに歌ったら一人や二人の人が聞いてくれるかもしれないわけだよ。瞬間的に思ったことを伝えられるのが歌の魅力なんだ。表現するのに一銭もかからない。僕にとって大切なのはそれだけなんだ。自分が歌いたときに歌って相手に伝えられたらそれでいいんだよ。5,000人の前だろうが武道館のステージだろうが3人の前だろうがね、それは変わらないんだよ。もちろん名誉欲や自己顕示欲もあるけれど、3人の前で歌えれば僕の場合は事足りてしまうんだよ。その代わり自分が歌いたいときにしか歌いたくはない。これからコンサートがあるから10曲歌ってくださいと言われても歌いたくなければ歌わないんだ。束縛が嫌いだからね」

 

──これまで手がけられてきたアーティストの中で、一番思い出に残っていることは何ですか?

 

ピエール 「ジャン=ロジェ・コシモンを世に送り出したことだね。彼以外のアーティストは、多分僕がいなくてもなんらかの形で世には出ていた人たちだと思うんだ。でも民衆詩人だった彼は、素晴らしい才能があったにも関わらず、お芝居で端役として舞台に出ていただけだったんだよ。彼は謙虚で自己顕示欲がない人だったからね。あるときモンマルトルで彼を探し出して、彼の作品を出したいと言ったところ、彼から“そんなことを言わないでください。お金を捨てるようなものですよ”と言われたんだよ。その後結果として4,5枚の作品を出したんだけど、そのおかげで彼は大きな劇場にも出られるようになったんだ。そして死ぬまでの15年間彼の人生は輝いていた。それこそ、僕と出会うまではそこらへんの酒場で少し歌っていただけだったから、彼の人生に輝きをもたらすことができて、とても誇りに思っているんだ。ところでレオ・フェレは知っているかい?」

 

──名前ぐらいですが。

 

ピエール 「彼はすごく有名なアーティストだけど、実は彼の歌詞をジャンが書いていたこともあったくらいなんだ。ジャンの他にはナナ・ヴァスコンセロスも印象深かったね。当時はブラジル本国でも、ブラジルの民族楽器であるビリンバウのアルバムはなかったんだよ。ビリンバウ奏者の作品、ナナのレコードを出したサラヴァが初めてなんだ」

 

──彼のどこに惚れたんですか?

 

ピエール 「音楽の才能かな(笑)。このあたりは言葉ではうまく伝えられないけどね」

 

──ピエールさんはフランス初、世界初の音楽もたくさんリリースされてこられましたが、手がけるミュージシャンや作品を選ぶときの判断基準は何でしょうか?感性と言ってしまえばそれまでかもしれないのです(笑)

 

ピエール 「難しい質問だね(笑)。そこはやっぱり“感動”があるかないか、それに尽きると思うね。例えばこのミュージシャンをプロデュースしたら1万枚売れると言われても、感動しなかったらやりたくないしね。君の言うように確かに感性なんだけど、聴いてもらったらなんとなくわかるとは思うけどね」

 

──少し視点を変えて例えばアーティストの“作品”と“人間性”、大きく二つに分けた場合、どちらを重視されてきましたか? 例えば才能や作品がよければ人間性は気にしないのか、それよりも気になったアーティストの生い立ちや生き様などに共感して、売り出したいと思ったのでしょうか?

 

ピエール 「やっぱり音、作品かな。これまで性格がどうしようもないミュージシャンもたくさんいたけどね(笑)。僕は作品ありきで選んできたね」

 

──そのことで言うと、“本当に自由にやっていい。禁止事項はないから思い切りやっていい。その代り10年経っても聞ける音楽を作ってくれ”と自由な制作環境を提供してきたそうですね。これはとても勇気がいることだと思うんですよ。手がけるミュージシャンを信用しないとできないことじゃないですか?

 

ピエール 「それはそうだね」

 

──これまで色んな方に取材してきたんですけど、そこまで言えるプロデューサーやディレクターはなかなかいないようなんですね。セールスありきの音楽レーベルだと特に難しいようなんです。

 

ピエール 「細かいディレクション、例えばここにトランペットをいれろと言ったりしたことはなかったな。僕がやってきたのは“紹介”なんだよね。一人一人にあった組み合わせを提案して、新たな化学反応が起こることを期待していたんだ。例えばブリジット・フォンテーヌとアレスキー・ベルカセム組み合わせは、誰も考えられなかったものだった。こういうアイデアは自分だけのものだと思う。あと、スタジオにこもっていると行き詰ることがよくあるんだよ。そのときに一言、アドバイスをすることはあったね。またどうしても言わなければいけない時というのがあるんだけど、そのときはね、そのアーティストが自分で気づくような言い方を、悟らせるような伝え方を心がけてきたんだ。アーティストはみんなプライドの高い人が多いから上から何かを言われると反発したくなるからね」

 

──日本では今そのとき流行っている音楽を参考に、それを取りいれて音楽制作をしている方も多いのですが、流行りの要素を取り入れることについてはどう思いますか?

 

ピエール 「流行りものは“うまくできているな”とは思っても“驚き”が感じられないんだよね。だからそれには興味がなかったな。昔で言えばフランスでもアメリカンポップスが流行ったけど、僕はそれをやらなかったね」

 

──わかりました。ところでシンガーソングライターのダヴィッド・マクニールのように、サラヴァが才能を見出したアーティストの中には、サラヴァで作品をリリースしそれがヒットを飛ばすと、大手から声がかかりサラヴァを去ってしまったこともたくさんあったと聞きましたが辛くはなかったですか?

 

ピエール 「そもそもフランスの法律では、アーティストとの契約を5年以上結べないようになっているんだよ。それ以上契約すると人権侵害と見なされてしまうんだ。新人を育てるのには5年から7年くらいかかってしまうから、育ったころにさようならをしなければいけないのは、もちろん辛い。でも大事なことはいい作品を作ることだからね。出ていきたいと言っているアーティストを引き留めたっていい作品はできないんだ。それとこのことはね、サラヴァのようなレーベルの宿命だとも思うんだよ。サラヴァはラボラトリーみたいなものなんだ。ソニーのような大手は資本もあって営業ができるから、アーティストを大々的に売り出すことができる。でも我々にはそれができない。さっきも言ったようにサラヴァでは稼いだお金を全額、次の制作費用として投資してしまうから営業費用はないんだよ。僕は自分たちにできること、役割もわかっているつもりでね。サラヴァはモノづくりの会社なんだ。そこから先は大手レーベルの役割なんだよ。サラヴァではいい作品は作れてもそれを大々的に売ってあげること、営業はできないからね」

 

──もう少しそのあたりを詳しく教えてもらえませんか?

 

ピエール 「サラヴァ・レーベルの特殊性は営利企業ではない、ということなんだよ。形こそ法人で営利企業になっているが、実態はまるで違っていてね。音楽出版で入ってくるお金は家賃などの経費を除いて100%次の作品を制作するために投資されているんだ。だから僕はこの50年間一度も会社から給料をもらったことがない(笑)」

 

──なるほど、それでサラヴァの役割がより明確に理解できました。ラボラトリーであることの所以も。ちなみにサラヴァはこれまで何人でやってきたんですか?

 

ピエール 「一番多いときでも4人だったかな。大半は一人でやっていて、あとは手伝ってくれる仲間や外注で賄ってきたんだよね」

 

──そんなに少人数でやっていたとは意外でした。一方世界中にサラヴァのファンがいますよね。日本でも高橋幸宏さん、坂本龍一さん、加藤和彦さん、ムーンライダーズなどの大御所からカヒミ・カリィや椎名林檎さんら中堅、20代の若手では優河さんやスカートの澤部渡さんなど、幅広い世代のミュージシャンがサラヴァのファンであることを公言されています。愛されている理由は何だと思いますか?

 

ピエール 「うーん、自分としてはよくわからないんだよね(笑)。自分はただ自由に好きなことをやってきただけだからね。でも自由にやってきたことが、音楽を通じて伝わったのかもしれないね。日本にも多くのファンがいることはやっぱり嬉しいよ」

50年続いた理由…しいて言うならば“僕の中の新しい才能を発見したい、世の中に伝えたいという情熱”が続いたからだろうね

──ピエールさんは束縛が嫌いで自由でありたいと話されていますが、何かきっかけがあったのですか?

 

ピエール 「初めて自分のレコードを作ったときに、ディレクターがいたんだけど、ライヴのときにはこういう曲順でやってくれだとか、舞台にはこういう段取りであがってくれだとか、制作についてあれこれ指図されたことがあってね、それがものすごく嫌いだったんだよ(笑)。実は“自由”という言葉はそんなに好きじゃないんだ。なぜかというとすごく漠然としている言葉だからね。自由というのはね、実は何も選べないし、そもそも簡単な自由なんてありえないよね。でも自分で作れる自由というのはあるんだ。それは常にオープンなマインドでいることなんだよ。だけど、その精神状態を維持することがすごく難しい。象徴的なのは、自分がヒッチハイクで旅行をはじめたときに、右に行く車に乗ることもあれば反対車線の車に乗ったこともあったってことなんだ。つまりどこかに向かうんじゃなくて、来たものをそのまま受け入れたということなんだよね」

 

──初めて作品をリリースしたときのことを覚えていますか?

 

ピエール 「嬉しかったということしか覚えてないなあ。でも最初の作品のブリジット・フォンテーヌとの出会いも、それ以降のアーティストの出会いもみんな“一期一会”だった。“一期一会”も大事な考え方だね」

 

──今年でサラヴァは50周年を迎えました。

 

ピエール 「実際のところ僕は過去をふりかえるタイプじゃなくて、いつも現在のことしか考えていないんだ。だから50年だから特にどうこうというのはなくてね。今年やっている“サラヴァ50周年企画”も妻のアツコはじめスタッフが準備してくれたことだからね」

 

──わかりました。それでは50年続いた理由、秘訣は何だと思われますか?プライベートのインディーレーベルは、資金面の問題、家庭環境の変化の問題、そもそもリリースしたいアーティストに出会えなかったり…長続きするところはほんの一握りなんです。大抵が数年と短命だし、10年以上残るレーベルは日本でも数えるほどしかありません。

 

ピエール 「50年続いたのはね、僕が何かをしたわけじゃないんだよ。経営危機でつぶれそうになったことも何度かあったけど、結局はお客さんが支えてくれたからなんだ。世界中のリスナーがサラヴァの作品を買ってくれたからで、そういう作品をリリースしてきたからなんだよ。まあしいて言うならば“僕の中の新しい才能を発見したい、世の中に伝えたいという情熱”が続いたからだろうね」

 

──最後に、サラヴァって何だと思いますか?

 

ピエール 「うーん、クリエイションの冒険、かな」

Album『サラヴァの50年』

V.A.

サラヴァの50年

2016年9月28日リリース

Amazon

掲載日:2019年2月11日

初出:2017年1月18日/ポプシクリップ。マガジン第8号

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