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有志が運営する音楽WEBメディア「ポプシクリップ。」が主催する音楽イベント「POPS Parade Festival 2017」が、6月10日(土)に開催される。“時代に左右されない良質なポップスを届ける”ことをテーマに毎年開催されている本イベント。今年はシンガーソングライターの高野寛さんと黒沢秀樹さん(L⇔R)、そして昨年も出演いただいたTWEEDEESと杉本清隆さん、さらに昨年11月に活動を開始した新バンドAlma-Grafeの計5組が高円寺に集結、一夜限りの共演を果たす。

 

実は黒沢さんがL⇔Rとしてデビューした90年代、L⇔Rの楽曲に高野さんもギタリストとして参加したことがあったという。そのことに編集部が注目、10数年ぶりの共演ということもあり、今回の対談に至った次第だ。対談ではお二人の出会いから、デビュー当時のエピソード、当時流行っていた渋谷系ムーヴメントに対する考察、そして音楽に対するお二人の姿勢など、ファンならずとも興味深い話が満載となっている。6月10日のイベントでも何か期待できそうな、そんなスペシャルな対談となった。

 

インタヴュー・テキスト 黒須 誠

撮影 塙薫子

企画・構成 編集部

L⇔Rとは偶然スタジオが一緒になって、その場のノリで参加が決まりました(高野)
『LAND OF RICHES』というアルバムに収録されている「U-EN-CHI[遊園地]」という曲にギターで参加していただいたんです(黒沢)

──まずはお二人の出会いから教えてください。

 

高野寛 「鮮明な記憶として強く残っているのは、93年の山中湖のスタジオだね。僕が『I [ai]』というアルバムを作っていた時で、L⇔Rも同じ日に同じスタジオでレコーディングをしていたんですよ。それで盛り上がって。それ以前にも雑誌の対談かなんかで健一君には会っていたとは思うけど、はっきりと記憶に残っているのは山中湖ですね」

 

黒沢秀樹 「僕らはデビューしてから2年しか経っていなくて、知っているミュージシャンもあまりいなかったから、高野さんに参加してもらえて本当によかったですね。『LAND OF RICHES』というアルバムに収録されている〈U-EN-CHI[遊園地]〉という曲にギターで参加していただいたんです」


高野 「L⇔Rのスタッフには近しい間柄の人もたくさんいたので、彼らがデビューしたときから 仲間が増えたな という気持ちで眺めていたんですよ」

 

──L⇔Rサイドから高野さんにオファーされたんですか?


高野 「オファーも何も、その場のノリで(笑)。僕はそういうエピソードにどこか憧れがあって。レジェンド的なエピソードでよくあるじゃないですか? 坂本龍一さんの隣のスタジオにいた山下達郎さんがコーラスで飛び入り参加したとか、そんな伝説的な話をよく聞いていたんですよね。でも僕が音楽の世界に飛び込んだときは、自分のことで精一杯でね。音楽を作って、プロモーションしての繰り返しで、セッションを愉しむ余裕なんてなかったんですよ。だけどL⇔Rとは偶然スタジオが一緒になって、しかもリゾートスタジオで時間にも余裕があったから、何かやろうよって話がまとまったんですよ。長年音楽をやってきたけど、そんな経験はほんの何回かしかないんです。バッタリ出会ってセッションしたいなと思っても、プロダクションの壁やレコード会社の壁があって、契約上できなかったり」


黒沢 「当時はまだミュージシャン同士のつながりで何かをやるというよりも、予めレコード会社やレーベルが作ったプロダクションの中で音楽を作っていたんです」


高野 「今みたいにフェスという概念もないし、 コラボ っていう言葉もなくて、ヨコのつながりでレーベルを越えたり、セッションしたりすることがほとんどなかった時代ですね。その後、僕は同じレーベルの田島君と〈Winter' s Tale~冬物語~〉をやったり、スチャダラと小沢君が一緒に〈今夜はブギーバック〉をやったりとコラボものが少しずつ流行りはじめたけどね」


黒沢 「それ以前だとチャゲさんと石川優子さんのような企画モノとしてのコラボしかなかった気がしますね」


高野 「ミュージシャン同士が自然発生的に一緒に何かをするというのはあまりなかったんですよ」

 

──高野さんとのコラボレーションで「U-ENCHI」を選んだのは何故ですか?


黒沢 「タイミングですね。たまたまその曲のギターがまだレコーディングできていなかっただけで」


一同 (笑)


黒沢 「この曲のギターをどうしようか悩んでいた時だったんですよ。この歌は僕がL⇔Rでリードヴォーカルを取ることになった初めての曲なんです。L⇔Rがそれまでに作った曲とも毛色が少し違うんですよ」


高野 「3拍子だしね」


黒沢 「ザ・シングルという感じの歌でもなかったから、何かもうひとひねり欲しいよね、という状況だったんです」


──録音はどのような状況で?


黒沢 「コード譜だけ渡して、その場で高野さんに考えてもらったんですよ。僕には全然思いつかないギターになりましたね」


高野 「と言っても、アドリブでソロを弾くわけでもなくて、曲のためのバッキング・ギターだからね。音楽のボキャブラリーが豊富ではなかったけど、僕は自己流でやってきたから、それが独特な味になったんだろうな。よく覚えているのはね、渡された譜面に つぶ君の遊園地 という仮タイトルが書いてあったことなんです(笑)」


黒沢 「 つぶ君 というのは、僕のことなんです(笑)。プロデューサーの岡井大二さんのお子さんが、当時僕のことを ごはんつぶ君 と呼んでいてね」


──初めて一緒にお仕事をされた作品が「U-ENCHI」とのことですが、その後も交流はあったんですか?


黒沢 「L⇔Rのシングルのカップリング曲で〈そんな気分じゃない〉という歌があるんですけど、これの別バージョンがあって」


高野 「リミックス的なやつだよね」


黒沢 「そうです。この別バージョンを作るときに、色んな人を呼んでぐちゃぐちゃっとしたセッションみたいなことをやりたくて、高野さんにもギターで参加してもらったんです。その後も高野さんとはちょいちょい一緒に現場で顔を合わせていましたね」


高野 「お互いにサウンドプロデューサーの仕事が多くなってきたんです。だから黒沢君がプロデュースしている現場に呼ばれて僕がギターを弾いたり、僕がバンマスをやっていたイベントにギタリストで黒沢君に参加してもらったりね。わりと近しい事務所に所属していたときもあったから」


黒沢 「僕と高野さんは立ち位置がわりと似ているんですよね」


高野 「ざっくり言うとジョージ・ハリスン系かな」


一同 (笑)


黒沢 「実際のところ仕事で困ったときには、高野さんに頼んだらなんとかなるんじゃないか、という安心感もあったんです。高野さんはコンポーザー、ギタリスト、アレンジャー、エンジニアと一人で何役もこなせる多才な人ですからね。きっとこれまで色んな無茶ぶりをされてきたんだろうなって(笑)。あの国際交流の仕事も大変そうでしたから」


高野 「03年が日本とASEAN諸国の交流年に決まって、その記念行事の中にASEAN各国のヴォーカリストが同じテーマ曲を各国の言語で歌うという企画があったんです。そのフィナーレとしてパシフィコ横浜で『J-ASEAN POPs in YOKOHAMA』というイベントをやったんですよ。各国のアーティストが集まって各国の歌を歌い、最後にテーマ曲を全員メドレーで歌うという企画の取り纏めをやったんです。共通言語は簡単な英語くらいしかなくて、音楽も各国の個性が強く立っていたから一筋縄ではいかず、かなり大変だったんです。R&Bみたいなものから日本の演歌みたいなものもあったし、アイドルっぽいのもたくさんあってね。全部僕らがバックバンドとしてサポートしたんですよ」


黒沢 「僕も一緒にサポートをしたんですけど、譜面起こしのお手伝いなどもさせていただいたんですね。譜面起こしながらこんな複雑で多様な音楽をどうやって高野さんは演奏するんだろう、って心配になるくらいで(笑)」


高野 「あのときは本当に助かったよ(笑)」

僕とL⇔Rの共通点は渋谷系に行かなかったことですね(高野)
それで気づいたのは世代感覚が一つズレていることなんです(黒沢)

──秀樹さんが高野さんの音楽を知ったのは?

 

黒沢 「僕は高野さんの『CUE』というアルバムが大好きだったんですよ。もともと邦楽はあまり聴いていなかったんですけど、高野さんの作品はまるで洋楽を聴いているかのような感覚があって、そこに親近感を覚えたんです。キャラメルママがバックの演奏をやっているころのユーミンから感じるような、歌謡曲ではない邦楽なんですよね。それに近い感覚があったんですよ。邦楽アーティストでそういう方をあまり知らなくて、高野さんのような音楽が受け入れられるのであれば、僕らもいけるんじゃないかと、勝手に思っていましたね(笑)」

 

──高野さんがL⇔Rを知ったのはいつ頃ですか?

 

高野 「デビューしたときから知っていましたよ。アルバムをいただいて聴いていました。僕はフリッパーズ・ギターとの交流もあったので、同じレコード会社だったポリスターの方から教えていただいたんですよね。80年代後半から90年代初頭は、XTCやエルヴィス・コステロがビートルズ的な要素を積極的に取り入れていた時期で、ジョージ・ハリスンの『クラウド・ナイン』やポールの『マイ・ブレイブ・フェイス』は世界的にヒットしていたけど、日本でその流れに乗った作品を作っているアーティストは多くない時代でした。ほぼ同時期のミスチルはそのあたりのエッセンスを取り込みながらJ-POPにうまく寄せていったけど、L⇔Rはもっとルーツ・ミュージックに忠実だったよね。でもL⇔Rらしい曲の持ち味があったのがよかったんですよ。余談だけど、僕はデビューして1,2年くらいはネオアコだって言われていたんです(笑)」

 

──ネオアコのイメージはなかったので意外でした。確かネオアコという言葉は日本独自のもので、90年前後に作られたと聞いたことがあります。

 

高野 「ネオアコのわかりやすいイメージってイギリスですよね。アズテック・カメラやプリファブ・スプラウト、ベイル・ファウンテンズなどが挙げられると思うんですけど、僕はプリファブ・スプラウト以外はそんなに聴きこんではいないんです。実は初期はアコギもそんなに使っていないし」

 

──打ち込みもたくさん入っていますしね。

 

高野 「そうなんですよ(笑)。だけどその頃はタテノリではない、ギターの歪んでいない音楽、主にソロのシンガーソングライターなどは無理やりネオアコというジャンルに押し込まれていた気がします。フェビアンとかね。僕はその後もひねくれポップスとか色々言われるんですけど、僕とL⇔Rの共通点は渋谷系に行かなかったことですね。21世紀になると間違えて渋谷系のコンピレーションアルバムに入っていたりするんだけど、当時リアルタイムで言われたことはなかったんです」

 

──以前音楽プロデューサーの牧村憲一さんに取材をしたとき、牧村さんは小山田圭吾さんが主宰するトラットリアレーベルと、岡井大二さんが主宰するウィッツレーベルをあえて離して作ったと話されていました。もちろん牧村さんも渋谷系という言葉は後付けだとは話されていましたが。

 

黒沢 「トラットリアとウィッツの違いを僕なりに考えてみたことがあるんです。それで気づいたのは世代感覚が一つズレていることなんですよね。いわゆる渋谷系と呼ばれていた人たちは僕らより年が少し上で、今50歳前後の人たち、オールドロックのリバイバルを聴いて育った人たちなんですよ。だから視点も客観的だし、ファッショナブルなことにも価値を見出している人たちが多いんじゃないかって思うんです。いわゆるルーツロックという考え方ではなく、再構築に重きが置かれているんですよね。でも僕ら兄弟で言うと、世代的には渋谷系の人たちと同じなんですけど、生まれや育ちが一回り上の従妹の影響で音楽を聴いてきたので、ダイレクトに影響を受けている部分も一回り上の世代に近いんです。だから年齢的には僕も渋谷系の世代だけれど、ルーツがズレていたから渋谷系とは違う音楽になったんじゃないかと」

 

高野 「生まれはどこだっけ?」

 

黒沢 「茨城ですね。それで音楽の原体験は小さいころに従妹の兄ちゃんが持ってきた大瀧詠一さんや細野晴臣さん、そしてブリティッシュロックやアメリカンロックのレコードなんですよ」

 

高野 「当時はネットがなかったし情報の地域格差が大きかったんです。僕は静岡で育ったんだけど、ギタリストの佐橋佳幸さんと話をしていると、3歳しか違わないんですが、佐橋さんはシュガーベイブのライヴを小学生のころに見ているんですよね。それは地方で育っていたらありえないわけで、黒沢君の世代でもかなり情報のズレはあると思うんだよね。フリッパーズが洗練されていたのは東京で生まれ育った部分もあるんじゃないかな。」

 

黒沢 「それは絶対あると思いますね」

 

高野 「あとはクラブカルチャーやソウル、R&Bといったものにどっぷりと入れたかどうか…まあ渋谷系の中にもどっぷりというより要素として取り込んでいたアーティストもいるけどね」

 

──高野さんの原体験は何だったんですか?

 

高野 「僕の原体験はテレビでね。大瀧さんで思い出すのは三ツ矢サイダーのCMかな。『スター誕生!』という番組の三ツ矢サイダーのCMでビートルズの〈LOVE ME DO〉が流れているのを聴いたりしていたね。そういうのがポップな経験として残っているんですよ。その後、YMOに出会って衝撃を強く受けたんです。歌謡曲やニューミュージックとは違う異質な音楽だったし、脳天打ち砕かれたような記憶があります。その翌年にジョン・レノンが暗殺されたりと、この2つの出来事が今も強く残っていますね」

 

──何故そう思われたのでしょうか?

 

高野 「多分、前提として当時の日本の音楽は洋楽より劣っているという感覚があったと思うんですよ。だからYMOが世界で認められたのが嬉しかったしね。それと比べると渋谷系の頃は、クラブカルチャーで世界が共振していた時代で、日本と海外のセンスがぐっと近づいた時。洋楽へのコンプレックスの有り無しも、僕らとの大きな違いだったんじゃないかという気がしますね」

僕の場合はずっと、メインストリームには居場所がないんです(笑)(高野)
僕らは圧倒的に流行っていないものに力を注いでいたんです。”時代遅れの最先端”をやっていた感覚ですね(黒沢)

──高野さんはトッド・ラングレンプロデュースの「虹の都へ」や「ベステンダンク」がヒットして一躍有名になりました。

 

高野 「もともと僕がトッドの大ファンで1stアルバムを作ったときにスペシャルサンクスとしてトッドの名前を勝手に入れていたんですよね(笑)。その直後にアメリカのトッドの事務所から“日本人アーティストをプロデュースしてみたいから、面白い人がいたら紹介してほしい”というFAXがレコード会社各社に届いたんです。『SKYLARKING』のプロデューサーとしてトッドが再評価されていた時期でもあって、それで多くのアーティストが応募したんですけど、結局トッドが気に入ったのは僕とレピッシュだけだったんです。その後トッドから1stアルバムを聴いて気に入ったから、最近の音楽も聞かせてほしいと連絡があって、早速送ったらトッドからすぐに返事が来て一緒にやることになったんですよね。後日トッドに理由を聞いたら、“アルバム1枚分いい曲を書ける人はたくさんいるけど、真価が試されるのは2枚目・3枚目だからそれを確認したかった”ということだったんです。89年初頭の出来事です」

 

──それで一緒に作った作品が90年にリリースされた「虹の都へ」だったんですね。

 

高野 「そうですね。ただその前にも実はトッドと1枚だけシングルを日本で作っているんですよ。〈ある日、駅で〉という曲でそのときのレコーディングメンバーはドラムに高橋幸宏さん、ベースに小原礼さん、ギターが大村憲司さんに、キーボードが小林武史さんだったんですよ。実はレピッシュが僕よりも先にトッドとレコーディングすることが決まっていたので、それよりも先にやりたくて無理言ってお願いしたんです(笑)。僕自身トッドの大ファンだし、彼と一緒に仕事をした日本人第一号になりたくてね(笑)。結果、お互いのやり方を知る上で、アルバムの準備としてもとてもいい経験になったんですよね。トッドと打ち解けることもできて、それが〈虹の都へ〉以降につながっていくんです」

 

──一緒にやられていかがでしたか?

 

高野 「トッドのやり方は色んな意味で型破りだったんですよね。特に覚えているのは、カップリングのレコーディング。スネアのチューニングが高いからと、トッドがどんどん下げていったんですよ。大丈夫かと不安になるくらい下げてから、リミッターとEQをがっつり使って音を作ったんです。決して生音、いい音だけにこだわるわけでもなく、音を加工して録ることの面白味を感じましたね。みんなビックリして見ていました」

 

──80年代中期以降は、YMOの影響もあってかシンセ・サウンド、機械の音がポップスと融合した時期でそれは高野さんの作品でも随所に見られます。

 

高野 「僕の作品もそうだけど、さっきも話に出た87年にリリースされたジョージの『クラウド・ナイン』やXTCの『スカイラーキング』を聴いてもそれがわかるんですよ。少しだけシンセの音やシンセならではのアレンジが入っているんですね。完全なビートルズの模倣ではなくて、新しい感覚でシンセサウンドを使ってミックスしているのが面白かったんです。そういう時代だったと思いますね」

 

──高野さんの「ベステンダンク」におけるバッキングのシンセサウンドもわかりやすい例ですが?

 

高野 「実は〈ベステンダンク〉はもともとネオアコ的な、ギターポップアレンジで作った曲だったんです。ギターのストロークで作ったんですけど、トッドが首をかしげてしまったんですね。トッドはいつも好き勝手にやらせてくれたし、僕のアレンジに口をはさむこともそんなに多くはなかったんです。僕はどちらかというと助けて欲しかったんですけどね」

 

一同 (笑)

 

高野 「ただ、この曲だけは例外で、トッドがスタジオで自らキーボードを弾きながらリフまで考えて作ったんですよね。だからあのバッキングはとてもトッドらしい雰囲気になっているんです」

 

──高野さんのキャリアを振り返るとご自身もブラジルでレコーディングされたり、坂本龍一さんや宮沢和史さんのサポートで世界20数カ国以上を周られています。海外ではどのようなことを学ばれたんですか?

 

高野 「学んだことは計り知れないんですけど、一番は現場での対応力がついたということですね。海外には機材もそんなに持っていけないし、トラブルがつきものだったから、その中でいかにライヴを成功させるか…とても鍛えられましたね。またレコーディングも同様で、僕が行った海外のスタジオは日本のスタジオと比べると充実した環境ではなかったんです。例えばキューボックスという音のバランスを自分たちで調整できる機械がなかったり、ヘッドフォンのボリュームすらないスタジオもあったんですよ(笑)。でもその中で工夫していかにいい音を録るのか、試行錯誤した経験がとても勉強になったんです。あと日本では楽器や機材にこだわりを持っている人が多いんですけど、海外ではそうでもなくてね。この人のプレイはすごいなと思って見たら、とても安い楽器を使っていたりすることもたくさんあったし。弘法筆を選ばず、とはこういうことなんだなと実感しましたね」

 

──知人で海外に行ったミュージシャンから、PAが時間通りに来なかったり、リハが適当だったという話を聞いたことがあります。

 

高野 「それでも彼らは本番には強いんですよ。日本人は緻密に80点のリハーサルをやって本番では90点を目指すという感じなんだけど、彼らは40点のリハーサルをやるんだけど、本番では120点を出してくるんです。ASEANのシンガポールのイベントときに、リハの時間になっても大道具さんがまだ会場設営をしていたり、TVも入っているのに通しのリハーサルもなかったりして心配だったんですけど、本番になったときのスタッフの変貌ぶりが凄かったんですよ。見違えるように音響も良くなって、イベントも盛り上がったんですね。ラテン系の緩い国は特にそうで、リハが適当なんですよね(笑)。リハの最中に何度言っても音響が改善されなかったりすることもざらでね。でも本番が来るとうって変わって良くなるということが何度もあったんです。きっと彼らは本番のために力をとっておいているんでしょうね。あと予定調和を嫌っているのかもしれない。でも彼らの中ではきっと本番で決める確信があるから、リハを適当にやっている気がするんですよね」

 

──それでは高野さんのスタイルも影響を受けて変わったんですか?

 

高野 「確かに日本のやり方とはだいぶ変わってきていますね。一作年にリリースしたアルバム『TRIO』では、歌と演奏を同時に録ったんですよね。この作品はブラジルでレコーディングをしたんです。ヴォーカルは編集や修正をすることも多いので、いつもは別に録音するんですけど、このときはあえて修正できない環境に自分を追い込んだんですよ。だから音像としてはラフな部分もあるんだけど、その時の緊張感や空気感を出せた作品になりましたね」

今の時代は好き嫌いだけで判断していいと思うんですよ(黒沢)
誰かが心を動かされているんだったら、どんな音楽にも存在意義があると思いますから、それがいい音楽なんでしょうね(高野)

──お二人は長年音楽を続けられていますが、振り返ってみていかがですか?

 

高野 「僕がデビューしたころは、自分の居場所がないなって思ったんです。第2次バンドブームでバンドが盛り上がっていたし、ビーイング系が台頭してきたり、自分と同じような音楽をやっている人がほとんどいなかったんですよ。その中で共通言語を持った貴重な友達の一つがL⇔Rだったんですよ。でも僕の場合はずっと、メインストリームには居場所がないんです(笑)。聴いてきた音楽がそうだから仕方ないけどね。L⇔Rって売れようと思ってやっていた?」

 

黒沢 「全く(笑)」

 

一同 (笑)

 

黒沢 「すごいものを作ってやるぞ、という気持ちはあったけどね。所詮僕らはマイノリティなんですよ。僕らは圧倒的に流行っていないものに力を注いでいたんです。時代遅れの最先端をやっていた感覚ですね。例えば当時のブライアン・ウィルソンがビーチボーイズのブラザー・レコード時代にやっていたような音楽って誰も聴いていないと思うんですよ」

 

高野 「一般の人はそうだよね。ミュージシャンだったら聴いている人も多いと思うけど」

 

黒沢 「レコード会社のディレクターに言ってもあまり理解を得られないような音楽を志向していたから、売れるという世界からは大分遠かったんです」

 

高野 「周りで売れたミュージシャンを見ていると、大半は自分たちから積極的に売れようと思ってやっているんですよね。僕にはそれがなかったから、いざ自分が売れてしまったときに少しパニックになったんですよ。周りからはヒットシングルを作って欲しいという期待が高まるし、そんなときにどうしたらいいのか、わからなかったんだよね。L⇔Rも似たような時期があったと思うけど」

 

黒沢 「僕らも思いがけず売れてしまったから、そこから先を考えていなかったんです」

 

高野 「また90年代になって、ヒットチャートから疎くなってしまったんですよね。あの頃は昔のリイシュー盤もたくさんCDで再発されるようになったんです。だから、流行りじゃないけど自分にとっては宝物のような音楽に、たくさん出会った時期だったんですよ」

 

──売れるということを意識はしていなかったということですが、それではどんなスタンスで続けてこられたんですか?

 

高野 「自分の曲が、時間が経ってからもずっと誰かに聴いてもらえたらいいなと、単純にそう思っていたんです。最初のベスト盤のタイトルが『Timeless Piece』なんですけど、これはビーチボーイズの『タイムレス』のイメージもあるけど、何よりもタイムレスな作品を作ることが僕の目標であることを意味して名付けたんです。その点でもメジャーレーベルの意向とはなかなか嚙み合わなかったんですよね(笑)。メジャーだと今すぐ売れなればいけないわけだから…こればかりは仕方ないんですけど」

──近年のお二人はギターを片手に弾き語りツアーで全国を飛び回られています

 

高野 「僕の場合、矢野顕子さんのライヴや、大学生のときに観たピーター・ゴールウェイ、ピーター・ケース、ヴィクトリア・ウィリアムスのアコースティック・ライヴの影響が大きいんです。とても自由でいいなと思って。弾き語りライヴは憧れではあったけれど、バンドとはまた違うスキルも必要で、00年前後からなんですよね、自分ができるようになったのは。落語に近い感じですね、きっと。でも背中が寂しいんだよな(笑)」

 

黒沢 「弾き語りは全部自分でやらないといけないから、ハードルが高いんですよね。MCも大変だしさ(笑)。でもお客さんと向き合ってできるし、自由に色んな歌を、その場のノリで歌うこともできるのが魅力なんです」

 

高野 「最近のライヴは二極化していると思うんです。Perfumeのように映像や音楽とシンクロしながら一つのタイムラインを最後まできちんと魅せるようなものは、ある種テーマパークみたいなもので、一つの作品として成り立っている魅力がありますよね。一方で僕らがやっているギター一本での弾き語りは、その場に居合わせた人でしか感じられない、再現不可能なもので、何が起こるかわからない面白さがありますしね」

 

黒沢 「デジタルの時代になって作品はコピーされるようになりましたけど、ライヴの体験だけはコピーできないじゃないですか? 引き語りで全国を周ってファンの方と出会えるのがやっぱり魅力ですね」

 

──最後にお二人が思う“いい音楽”とは何なのか、教えていただけませんか?

 

黒沢 「僕はもともとシングルでいうB面が好きだったり、世間の流行から外れたものが好きで音楽をやってきたんですけど、今の時代は好き嫌いだけで判断していいと思うんですよね。僕に全く響かない音楽が、響く人も世の中にはたくさんいるだろうし、その逆もしかりで…あと音楽は誰かの役に立てばいいんじゃないかって思うんですよ。音楽を聴いて、その人の気持ちが少しでも変われば、それがその人にとっていい音楽だと思いますね」

 

高野 「昨日たまたまフィッシュマンズの〈幸せ者〉を聴いていたんです。“みんなが夢中になって 暮らしていれば 別に何でもいいのさ”というフレーズがあるんだけど、まさにその通りだなと。今はあまりにも音楽が細分化して混とんとしているし、同じ時間軸なのに生きている世界が全く違うように感じる話で世の中溢れかえっているじゃないですか? 少なくとも音楽に関しては、好き嫌いでいいんじゃないかな。誰かが心を動かされているんだったら、どんな音楽にも存在意義があると思いますから、それがいい音楽なんでしょうね」

 

──本日はありがとうございました。6月10日のイベントも楽しみにしています。

【公演】POPS Parade Festival 2017
【日時】2017年6月10日(土) open 17:00/start 18:00
【会場】東京・高円寺HIGH
【出演】高野寛/黒沢秀樹(L⇔R)/杉本清隆(orangenoise shortcut)/Alma-Grafe/TWEEDEES
【料金】前売 4,000円(+1drink)/当日 4,500円(+1drink)※学割あり

【備考】来場者には杉本清隆、Alma-Grafeの新作音源をプレゼント!

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